2009年9月28日 (月)

音のありか


「One Poem One Painting」 Lars Jansson Bohuslän Big Band

音楽の国スウェーデン。
ピアニストのラーシュ・ヤンソンが率いるビッグバンドジャズです。
音にはそれぞれ温度があります。
僕はラーシュから伝わる秋の風みたいな温度が大好きですが、
人によって好きな音楽や音楽の種類が違うって、
人によって丁度良いお湯加減があるみたいで
すごく面白いと思います。
みんなが別の所に道を作って、
いくつもの道ができて、いくつものバイパスが作られ、
いくつものジャンクションが生まれ、
いくつもの場所に旅することができるからです。

そして、この世のあらゆる物事は関連していて、
相互作用していると考えるべきです。
関連性の強さは、
互いの公約数の大きさによって決まります。
Aが更新されたら、Bは少なくとも
更新するだけの理由を持つことになります。
Aさんが手紙を出せば、Bさんが手紙を読みます。
この場合の関連性は決して弱くないし、何かしらの可能性も秘めています。
間に介しているのは郵便局です。
では、音楽においてはどうでしょう。
音情報を発する側とそれを受け取る側。
ただ、その芸術性は極めて流動的で身勝手な性格を持っているため、
良い悪いは事実上、好き嫌いと同意語になり
価値判断の8割強は受け取る側に委ねられます。
非常にあいまいですね。
そして、送信側と受信側の間に介しているものは何なのか。
音は空気の振動だから、空気でしょうか。
正しいですが、違います。
人体を隅々まで解剖しても「心」というものを
どこにも見つけることができないように、
楽器やオーディオ機器をどんなに細かい部品に分解しても
そこに「音のありか」を見つけることはできません。
なぜなら「音」というものは
物体ではなく、「動き」そのものだからです。
「心」もまた、「動き」そのものです。
つい、音や心を物体のように扱ってしまうのは、視覚が発達しているため
目に見えるものに頼ってしまう習慣が我々にはあるからです。
演奏者と聴衆の間に介しているのは、
「動きの情報」です。
車のように、動きの方向とスピード。
その組み合わせによって、情報が形作られるのです。

しかし、もしも音楽によって人が笑顔になれるなら、
そのゆるんだ口元が「音のありか」だと思ってしまっても
いいのかもしれません。


seki@dynamicaudio.co.jp

|

2009年8月 4日 (火)

やわらかい宝石

「First Cuckoo」 Deodato

「このスープはおいしいですね。
      防弾チョッキのおかげです。」

本当に良いメロディは、
インサイドでもありアウトサイドでもあります。
当てはまってもいるし、ずれてもいるのです。

「このスープはおいしいですね。パンに合います。」
では、ありきたりすぎるし、
「このスープはおいしいですね。明後日です。」
だと、うまくつながらず意味不明です。
しかし「防弾チョッキのおかげです」ならば、
防弾チョッキを着ていたおかげで一命をとりとめた人物が、
その後の食事でスープを飲んだときに味覚を刺激され、
存命感を強く感じたことにより命の尊さに触れ、
スープが実際の味よりもおいしく感じられた。
などと想像できるわけです。

美しいフレーズやセンテンスは簡単に見つけることができますが、
美しい「つながり」を見つけるのは簡単じゃないですね。
文節は全体と違和感なく結合して初めて音楽になり、
刺激的で魅力があれば人の胸を打ちます。
必ずインでありアウトでもあるわけで、
そのバランスに個人差があるだけなんです。
もっと言えば、コーダル(垂直)でもありモーダル(水平)でもあるんです。
そして良い作品は見る人や聴く人にいろんなことを想像させます。

デオダートの音楽の特徴として、
夜の泥酔に砂と海水をかけて真昼にひっぱり出したような
作り方をしています。
この人のローズピアノはいつでも、やわらかい宝石みたいな音ですね。
大好きです。

人間にとっての精神的栄養の一つに
音楽があるならば、
音楽が成長するための栄養は、
人間の想像力に他ならないのです。


seki@dynamicaudio.co.jp

      

|

2009年3月17日 (火)

都市化とラメント


「We'll be together again」 Pat Martino

音は景観に影響を及ぼす。
被験者を使ったある実験での話。
公園や草木に覆われた場所、住宅地では、
鳥のさえずりなどの自然音が景観の質を高め、
工場の音などの機械音が景観の質を損なった、
という印象を被験者に与えました。
これに対して、
都市化の程度が著しい開発された場所では、
自然音、機械音、どちらの音も
その効果が弱く、あいまいになってしまう、
という実験結果が得られました。

これは、
自然が失われ、都市化が進むにしたがって、
我々の音に対する感性が
どんどん鈍くなっていくことを示唆しています。

パット・マルティーノとギル・ゴールドスタインによる、
ギターとピアノのデュオ作品。
数あるマルティーノの演奏の中でも
曲、音色、タイム、情緒、音響
すべてにおいて一番好きなアルバムです。
とくに「Lament」がしみじみします。
やっぱいい曲だなぁ。

人はまず独占しようとし、
それに飽きると共有しようとします。
あるいは、共有することに飽きて
独占しようとします。
コーヒーゼリーをかき混ぜたような水面に太陽が反射して、
僕らの目にも反射して、
またどこかへ行ってしまうように、
音楽も音も
ただそこにあるだけなのです。


seki@dynamicaudio.co.jp

|

2009年3月10日 (火)

コンビナート

Ambient 2
「Ambient 2 - The Plateaux of Mirror」 Brian Eno/Harold Budd

コンビナートが好きです。
石油化学コンビナート。
あの集合体を眺めてるだけで、
映画のように音楽が鳴りだして、
その心地よさで
しばらくの間スクリーンにくぎづけになってしまうほどです。
じきに音楽は液体化して、
細胞と細胞をつなぎ合わせるように浸透していきます。
コンビナートは僕にとって、
極めて情緒的なものだと言えます。

おそらくほとんどの人が、
このような体験、あるいはこれに類似した体験を
したことがあると思います。
つまり、視覚が聴覚を(聴覚が視覚を)刺激して
なにかしらの情動が生まれる体験。
そもそも視覚と聴覚はリンクしていて、
どちらも味覚や臭覚に較べ独自性の強い感覚でありながら、
同期してお互いを高め合う感覚でもあります。
視覚と聴覚がつながっているのは、
映像や音を表現する言葉が同一であることからもわかります。
明るい 暗い 
きれい 汚い
硬い 柔らかい    
地味な 派手な
豊かな 貧弱な
これらはもともと、主に目に見えるものを表現する言葉であり、
それを音の印象にもあてはめているのです。
音楽は情緒的な側面が強く、
たいてい言葉ではうまく伝わらないので、
言葉で表現する際には
視覚的な形容詞を代わりに用いることが多いですね。
その形容詞が空間を表現し、
決して時間を表現していないことから、
視覚は空間で、聴覚は時間だと言えます。

ヘッドホンで音楽を聴きながら、
いろんな街を散歩して
この街並みにはこの音楽がはまるなぁ、とか
人の流れが音楽と同期して気持ちいいなぁ、っていう風に
何にでも音楽をつけるという遊びを昔してました。
っていうか今でもしてます。
でも少しでも違和感や気持ちの悪さを感じたら、
自分が自分をだます前に
すぐに別の音楽に替えなくちゃいけない。
そうやって、
自分の「感じる」を探っていく遊びです。


seki@dynamicaudio.co.jp

 

|

2009年2月 4日 (水)


「Fat Albert Rotunda」 Herbie Hancock

このまえ、交差点で信号待ちしてたら、
なにやら後頭部あたりからピーピーって音がしたんです。
「おや、耳鳴りかしら。。。」
と思いながら、信号が青になって歩き出しても
まだピーピー鳴ってんです。
「おかしいな」と思ってあたりを見回してみたら、
すぐ真後ろでおっさんがでっかい口笛吹いてるわけです。
しかたないからそれに耳を傾けてみると、
明らかにジャズスタンダードの「It Could Happen to You」なわけです。
しかも何回も同じとこ繰り返してるんです。
まぁ、繰り返してることはこの際どうでもいいとして、
問題はメロディに強弱や遠近がなく、一貫して全くのフラットだったということです。
何が言いたいかというと、
この場合「口笛の人」は、おそらくこの曲に大した思い入れはなく、
まして歌詞やその意味までは、理解していなかったはずだということ。
歌詞を頭にインプットして理解すると、
アウトプットが劇的に変化するのです。
「It Could Happen to You」の最初の一節は、
「心を隠し、夜に見た夢にも鍵をかける。そんなことがあなたにも起こるかもね。」
といった内容。
これを理解したり、これについてイメージするだけでも、
メロディは決してフラットで無機質にはなりえないのです。
なぜなら、
まったく意味のわからない言葉だと
単なる音の羅列と認識されるところが、
意味を理解することで、
「こんな歌詞はずかしくて歌えない」とか
「こんなこと昔私にもあったわ」
「思い出したらだんだん腹立ってきたわ」など、
知らず知らずのうちに人間は
言葉に感情をくっつけてしまうからです。
そして、その感情が今度は声や楽器にくっついて
音として外に流れ出すしくみになっているのです。

ハンコックの「Tell Me a Bedtime Story」からは、
言葉なんかなくても感情の波が伝わってくるんです。
その波の上に船を浮かべれば、
僕らはどこにでも行けるんです。


seki@dynamicaudio.co.jp

|

2009年1月22日 (木)

リハーサル

Ambient 1 -Music For Airports
「Ambient 1 - music for airports」 Brian Eno

より深く知ろうとすることと、
より多くを知ろうとすることにそれほど違いはなく、
どちらもその過程において
いくども宿命的な力に屈服するも、
大小様々な恥や見栄、プライド、その他をさしだして
敗北をチャラにしながら進んでいきます。

積極的に音楽を聴く。
そもそも、音楽を聴く行為自体が受動性を含んでいるから、
積極的にっておかしいけど。
大半の音楽は積極的に聴かれることを前提に作られています。
でもそうじゃないのもある。
BGM。
スーパーではフュージョン。
バーではジャズ。
美術館ではクラシック。
しかしこれらは本来、積極的に聴かれる目的で作られた音楽を
なかば強制的に「無視してもいい」立場に位置づけているので、
ちょっとかわいそうなんです。
だから、環境に溶け込んだり、
環境を演出したりするために作られた音楽もあるわけです。

アンビエントは、
リズムが一定のようで一定ではなく、
規則性と不規則性が不規則に混在しています。
ミニマル・ミュージックのスティーヴ・ライヒは、
曲の真ん中が一番盛り上がるように、
アーチ型構造の楽曲を作ったりしてますが、
アンビエントには基本的にサビと思われるような部分は存在しません。
でも積極的に聴けば聴くほど、
何かに似ていることに気付くのです。
自然です。
川の流れる音。
木の葉と木の葉がすれる音。
波の音。
それは単なるヒーリング・ミュージックではなく、
大昔から我々と共に存在した音楽。

いつから人間がわがままになったのか知りませんが、
考えることはいよいよ頭をおかしくしてしまいかねない。
僕たちがいつ自然にかえってもいいように、
この音楽はそのためのリハーサルなんです。


seki@dynamicaudio.co.jp

|

2009年1月13日 (火)

代理

Sunflower
「Sunflower」 Milt Jackson

「大丈夫か?」

というセリフがあるとします。
どんなときに使おうと、
この言葉の役割は変わりませんが、
見える世界は状況によって変わるものです。

よそ見してつまずいた人に対する「大丈夫か?」と、
戦地で負傷した兵士に対する「大丈夫か?」では、
意味合いも気持ちの入り方も全然違うわけです。

代理コードについて。
代理とは、
「同じ機能を保ったまま、性格が違う」ものです。
代理人、代理店、代理母。
そして代理コード。
どんな曲にどんなコードがでてこようが、
その機能は3種類しかなく、
実は本人も3人しかいません。
キーがCメジャーなら、
CとFとG。
それ以外のコードはすべてこの3人のうちの誰かの代理人。
あらゆる音楽が代理人だらけで構成されていると考えると、
なんだか不思議ですね。

そして、
元のコードを代理コードに置き換えるということは、
物語において、シチュエーションを変えるということです。
「大丈夫か?」というメロディに対して、
「戦地」というハーモニーを新たに与えます。
そうすることで、
まったく同じメロディに、まったく違った印象を持たせることができるのです。

バルトークの中心軸システムを活用すれば、
本人1人につき3人の代理人を使用でき、
4×3=12音すべてを代理、又は本人として用いることができます。
制約の中にこそ自由があるということを思い知らされる度に、
なんだか淋しい気分になりますね。
完璧な自由は、
今のところこの世にはないんでしょうか。


seki@dynamicaudio.co.jp

|

2008年12月30日 (火)

接続詞

Up All Night
「UP ALL NIGHT」 John Scofield

まだ小さかった頃、
本当は現実の世界が夢で、
夢の世界が現実なんじゃないかと、
疑っていました。
昨日の現実と今日の現実がうまくつながっていないことを、
不思議に思ったからです。
一日一日は箇条書きで、
今日は決して、昨日の続きではなかったのです。
僕にとっては。

ジョン・スコフィールドの良さは、
音楽を箇条書きではなく
一つの物語にするための接続詞のかっこよさ。
彼は、現在のコードの時に
次のコードの音や次のコードを匂わす音を
先回りして織り交ぜるのが非常に上手い。
そうすることで、
音楽の断片と別の音楽の断片がスムーズにつながり、
聴き手は、統一された一つの物語として、
それを認識することができるのです。
逆に言うと、
ジョンスコのフレーズは
各小節ごとで切り離してしまうと、
まったく音楽にならなくなってしまうこともあります。
すべてがそろって、はじめて形になるのです。
それでこそ音楽。
ほんとにすばらしいプレイヤーです。

今日と明日を
すてきな接続詞で
つなげていきたいですね。


seki@dynamicaudio.co.jp

|

2008年12月23日 (火)

音楽という病

I Want You
「I Want You」 Marvin Gaye

ミルクと砂糖を入れて、
時計回りにかきまぜると未来が見え、
反時計回りにかきまぜると過去が見える。
そんなコーヒーを人生で一杯だけ注文できるとしたら、
どの方向にスプーンをかきまぜますか。

僕は、スプーンをカップの底にこするようにして
直線方向にかきまぜます。
そうすると砂糖が早く溶けるって
昔テレビでやってたからです。

ソウルやファンク、AORといった血管には
同じ赤血球が流れていて、
この「I Want You」は一つの大事なジャンクションだったと思います。
リオン・ウェアが作った曲でマーヴィン・ゲイが歌ったら、
気持ちよくないわけはない。
チャック・レイニーは小節と小節をうまく繋いで、
横の動きを意識した重いベースを聴かせてくれます。
デヴィット・T・ウォーカーはもう言うことないくらい
最高にソウルなカッティングで音楽を包んでいます。
つまり、すべてがうまくいった奇跡的な作品だと思います。

楽観的に考えても、
良いことより悪いことの方が膨らんでしまうのは、
勝つより負ける方が簡単だし、
上がるより下がる方が楽だからです。
暴力は身体的なものだけじゃなく、
言葉やタバコ、酒、ガムなどにも存在しています。
「音楽で満たされる」という病は、
「音楽で満たされない」という病と、
いったいどう違うんでしょう。


seki@dynamicaudio.co.jp

|

2008年12月17日 (水)

モアレ

Seresta
「Seresta」 Stochelo Rosenberg

これはジャズじゃないとかジャズっぽいとか、
大の大人がそんなつまらない事を言うのは、
もうやめにしませんか。

バップに似た言語は、
同時期にヨーロッパでも生まれていて、
アメリカでは管楽器から生まれたのに対し、
ヨーロッパでは弦楽器から生まれました。
僕は管の「ダイナミクス」より、
弦の「ゆらぎ」の方が好きです。
「ゆらぎ」とは「スウィング」であり、
音楽がスウィングするために、
弦楽器の力に頼っている部分が大きいと思うからです。
とくにウッドベースですね。
規則的なゆらぎは、
別の規則的なゆらぎとかさなることによって、
「うなり」を引き起こします。
モアレ的に。

ジャンゴ・ラインハルトなどが有名な、
マヌーシュ・スウィングや
昔のパリの下町の音楽、ミュゼットなんかは
明らかにダンスミュージックであり、
ワルツでありジャヴァです。
「何のための音楽か」というのは、
とても興味のあるカテゴリーです。
祈りのための音楽。
集団暗示のための音楽。
癒しのための音楽。
舞踏のための音楽。
個人的な感情を表現するための音楽。
音楽研究のための音楽。
どの目的が人としてより健全であるかではなく、
どの目的も弱さや淋しさを拡大スキャンしただけなのです。

今聴いてる音楽で
心と体がいっぱいになれないなら、
聴いてる意味なんてないの。


seki@dynamicaudio.co.jp

|